お寺で心の叫びを聞く
夜7時ごろから、京都のお寺を歩く。
昨年秋にお寺でコーチングを体験したとき、
春のお寺も肌で感じたいと思った。
関連記事:「お寺でコーチング」(2004.11.22)
桜もほぼ終わりで、夜の京都のお寺で佇むひとときは、
静寂なひとときになると想定していた。
ところが、静かに庭園を見渡せるところに立ち止まり、
意識を集中しようと思うと、すぐ近くの公園から、
マイク演説の大きな声が聞こえてくる。
ふだんは大きな音や声は嫌いなのに、
不思議とあまり感情が動かない。
静寂な空間だけに浸っていたい気持ちと、
実際に聞こえてくる大きなノイズ。
その対比に何か意味があるように感じる。
見ないふり、聞こえないふりをしても、
現実社会で実際に起こる事件や災害。
外側で起こっている現実に、
目をそむけてはいけないという警鐘が聞こえた。
そのうち、内側にも、
気づかないふりをしている自分が見つかる。
大勢が集まる場で、
みんなのノリや合意に、違和感や抵抗を感じていながら、
口に出せずに飲み込んでしまった場面の数々。
以前も、違和感を感じたら口にしようと決めたのに、
忘れていた自分に気づく。
きっと今回は忘れない。
秋のお寺で、
たった1輪だけ咲いていた
真っ赤な木瓜の花を
見つけたように、
今日もまた、
茂る葉の陰で、
1輪だけ花をつけた赤い椿に目がとまった。
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