「人生という名の手紙」に学ぶ、相手のために聴く
ダニエル・ゴットリーブ著「人生という名の手紙」を
読んだ。
同じ著者の「人生という名のレッスン」を読んで
感銘を受けて、シリーズ1作めを読んでみた。
「人生という名の手紙」 「人生という名のレッスン」
交通事故で四肢麻痺になった精神分析医の
「おじいちゃん」から、自閉症の孫サムに
手紙という形で、人生の大切なことを伝えていく。
おじいちゃんのあたたかい気持ちがあふれる1冊。
その中に、こんな一節があった。
自分の子どもがいじめっ子に苦しめられれば、
親は激怒する。自然なことだ。
だが、問題は親や親が感じる怒りではなく、
子どもの気持ちと子どもが求めているものだ。
この前には、自分の娘たち(サムの母と伯母)が
スクールバスでいじめられたときに、
学校に文句を言ったエピソードが語られている。
娘たちは、学校に文句を言ってほしいのではなく、
まず、話を聴いてほしかったのだと。
私には親という立場はないけれど、
悩みを抱えている人や組織に関わったり、
学生さんや後輩に関わったりするときに、
しっかりと心に留めておきたいこと。
ついこれを忘れて、
自分の発想、感覚、感情から話してしまって、
相手の表情を曇らせた経験は無数にある。
「相手のために」と思うことが、
本当に相手のためになることは少なくて、
その経験の大半は、私の学びと修行になる。
なかなかできないから、
意識していてもすぐに忘れるから、
私のところに相談に来られる方が、
私のレッスンに来てくれるのかもしれない。
そして、
私がいつもそんなふうに聴けるようになったら、
私はコーチではなくなるのかもしれない。
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あと「人生という名の先生」という本が2009年5月に第二弾として出ているようだね。
ちょうど今書きかけのブログにも同じように、
>この前には、自分の娘たち(サムの母と伯母)が
>スクールバスでいじめられたときに、
>学校に文句を言ったエピソードが語られている。
>娘たちは、学校に文句を言ってほしいのではなく、
>まず、話を聴いてほしかったのだと。
相手の訴えを、真意を確認せず、さっと自分の論理、組織の論理で応対するのはなぜなんだろう?って
書いていたところ。
>そして、
>私がいつもそんなふうに聴けるようになったら、
>私はコーチではなくなるのかもしれない。
これにはドッキリしたよ。
いったい何になっちゃうんだろうね、まこちゃんは~。
Ryoji☆はぜひそんな風な自分になれたらいいなぁ~って夢想しています。
投稿: | 2011.02.16 12:49
Ryoji☆ おひさしぶり~
第2弾の「先生」も読みたいです。
本当に、どこに向かっていくのでしょうね~
ぐいぐい引っ張るよりも、引き出す人でいたいと願いつつ、
聴き手やサポートに徹しようとすると、いたずらっ子が出てきて
かまいたくなるし、かまってほしくなる。
よくわからないの~
投稿: まこ | 2011.02.16 14:42